第7回定期演奏会に寄せて 石原勇太郎氏楽曲解説導入編

標題音楽絶対音楽のはざまで――日本の吹奏楽作品のこれまでとこれから

 

  戸ノ下達也らによる『日本の吹奏楽史 1896-2000』(青弓社, 2013)に、作曲家中橋愛生による「吹奏楽曲創作の歴史」と題された短い概論が掲載されている(前掲書, p.169-182)。その中で中橋は次のような指摘をしている。「現代日本吹奏楽作品の『需要』は、このイベント[吹奏楽コンクール]で演奏するのに適した作品かどうかという一点に尽きる。この需要に適さないものは、どんなに音楽的に優れていても、広く受け入れられることは少なく、逆にここに受け入れられれば、吹奏楽作家として安定できることになる。」(前掲書, p.179)。

 中橋の指摘を基に考えてみると、近年の日本の(あるいは世界的に見てもそうかもしれないが)吹奏楽作品は、いわゆる「標題音楽」的作品が多く、それと対照となる「絶対音楽」的作品は少ないように思われる。しかし、標題音楽絶対音楽のどちらが優れているかという、19世紀的な議論をここで行うつもりはない。教育とも深く結びついた吹奏楽において、標題音楽的作品が果たす役割も十分理解できる。しかし、音楽というのは常に進化し続けるもので、吹奏楽のための作品もその例外ではない。現代日本の作曲家たちは、標題音楽に異常なほど傾いてしまっている吹奏楽の作品に、絶対音楽的な要素を入れつつある。そんな吹奏楽作品の発展を、この第1部で聴いていただこう。

音楽と物語が見事に一致し、華麗なる空想の世界を創り出す八木澤。親しみやすく、美しい旋律がその作品からあふれ出す酒井。無駄のない構造の中に、幻想的な一輪の華を咲かす高。喜びや悲しみ、様々な感情がその作品を疾走する福島。近年の吹奏楽作品の発展を担ってきたこれら4名に、吹奏楽作品の明日を担ってゆくことになる若手作曲家の野呂と関口の2名を加えた、6名の作曲家の作品から、標題音楽絶対音楽のはざまに揺れる作曲家たちの姿勢を見つめたい。