【期間限定】大江戸SWO第7回定期演奏会第2部 A.リード&J.バーンズステージ | プログラムノート石原勇太郎

 

・春の猟犬[A.リード][約9分]
交響曲第3番[J.バーンズ][約40分]

リードとバーンズ――「吹奏楽」を作った作曲家たち
 現在でこそ吹奏楽の作品は多様化し、その形式や様式も個性的なものが見られるようになった。しかし、多くの人々が想像する「吹奏楽」的な響きのする書法や、わかりやすく教育的な配慮のなされた形式などは、A.リードやJ.バーンズが確立したと言えるだろう。もちろん、吹奏楽史なるものが、今後より学術的に研究されるようになれば、彼らの用いた様式や書法も、また別のところにその根源をみることになるだろう。しかし、リードやバーンズが作り上げたと言っても過言ではない「吹奏楽」の伝統は、作品が多様化した現在においても、間違いなく生き続けている。そのことは、これから演奏する2つの作品からも聴くことができるだろう。

 

アルフレッド・リード 春の猟犬
 イギリスの詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(1837-1909)が、1865年に発表したギリシャ悲劇の形式に則った詩劇『カリドンのアタランタ』の中に、次のような一節が見られる。「春の猟犬が冬の足跡を追いかける時、牧場や平原にて月々の女神が、暗がりと風の吹き抜ける場所を、葉の擦れる音と雨の滴る音で満たす」――この一節からインスピレーションを受け、1980年に作曲されたのが《春の猟犬》である。スウィンバーンの詩自体は、ギリシャ神話と深く繋がっており、死をも暗喩するものである。しかし《春の猟犬》はそれらとは無関係に、スウィンバーンの詩からリードが直接感じた「あふれんばかりの若々しい快活さ」と「優しい愛の甘み」を音楽で描こうと試みたと語っている。
 「あふれんばかりの若々しい快活さ」はテンポの速い主部で示される。春の訪れを喜ぶかのような、拍子の交代を伴った躍動感あふれる短い前奏に続く主部は、6/8拍子の音楽。6/8拍子は西洋芸術音楽の伝統の中では、かつてから「狩り」を示す音楽である。また主部で中心的なF-Durは自然や田園風景を描く際に多く用いられる調である。このように、音楽の様々な点で春の訪れを祝う。対して中間部は「優しい愛の甘み」を示す、ゆったりとした部分。As-Durで開始するが、すぐにF-Durへと戻り、大自然の中で愛を語り合う。テンポを取り戻すと主部へと戻るが、後半では主部と中間部の旋律が同時に鳴り響く圧倒的なクライマックスを形成する。

 

ジェームズ・バーンズ 交響曲第3番
 1994年に完成した3番目の交響曲について、バーンズは「この交響曲はわたしが今まで作った作品の中で、最も感情的なものが流れ出している作品です。もしこの作品に副題を与えるとしたら『悲劇的』が適切であると確信しています」と語っている。《交響曲第3番》を作曲し始めた時期は、丁度生まれたばかりのバーンズの娘ナタリーが天へと旅立ったばかりであった。そのため、本作は一種のレクイエム的な要素を併せ持つ交響曲となっている。バーンズが語るように、本作は「絶望の淵である暗闇から充実感と喜びの輝き」に至る劇作法を取るが、これは西洋芸術音楽における交響曲の伝統――すなわち、L.v.ベートーヴェンの《交響曲第5番》に端を発する構成法と一致する。
 第1楽章は交響曲の伝統に則った序奏付きのソナタ形式による楽章。ソナタ形式というのは総譜に記された解説によるものであるが、本作の第1楽章は明確なソナタ形式に則ったものとは言い難い。むしろバーンズの絶望的感情を吐露するような、憂鬱で途切れることのないひとつの線が楽章を支配している。これはソナタ形式のような確固たるものではなく、むしろR.ワーグナーの劇作品に見られるような今にも崩れ落ちそうなほどの彷徨いである。冒頭でティンパニが強打するリズムは「絶望の動機」とでも名付けられるほど、交響曲全体で重要な役割を果たす。これはベートーヴェンの《交響曲第5番》や、J.ブラームスの《交響曲第1番》を彷彿とさせる。ティンパニの提示する「絶望の動機」と共に始まるテューバのモノローグは、調性も曖昧で不安定なもの。この不安定さは次々と楽器を変えて語り継がれてゆく。全体としてc-Mollを示唆する第1楽章は、最終的にG音が強烈に、しかし寂しげに響く。それは悲しみ、絶望、この楽章で生まれ「絶望の動機」と共に渦巻いている様々な負の感情が、いまだ解決していないことを暗示する。
 第2楽章はスケルツォ。この楽章はG.マーラーの《交響曲第1番》に見られるようなグロテスクな葬送行進曲でもある。3本のファゴットコントラバスが描き出す奇妙な世界は、バーンズいわく「世界に一定数はいる自尊心を持った人々への皮肉」である。第1楽章で生み出された負の感情は、ここである種の怒りへと変貌したのである。
 第3楽章は「ナタリーのために」と名付けられた緩徐楽章。バーンズ自身の言葉を借りれば「もしもナタリーが生きていたら、わたしの世界はどうなっただろうか」という叶わぬ夢を描いた幻想曲。第1楽章、第2楽章と負の感情に支配されていた《交響曲第3番》の世界に、はじめて光が降りそそぐ。曇天を切り裂く、天からの一筋の光を示すようなハープと打楽器群による前奏に続き、オーボエがやわらかに何かを語り始め、イングリッシュ・ホルンバリトンサクソフォンがそれを引き継ぐ。音域の低い楽器による歌は、あたかもバーンズ自身のナニカへの語り掛けを思わせる。バリトンサクソフォンが導き出したアルペジオの伴奏の中から、今度はホルンのやわらかで美しく響き渡る暖かな声が聴こえてくる。それはバーンズの語り掛けに応じるナタリーの最期の声かもしれない。そう、この楽章でバーンズはナタリーに、ナタリーはバーンズに別れを告げる。しかしその別れは、深淵へと堕ちた精神を解放するものではなく、b-Mollの陰鬱な和音と共に想いは消えてゆく。
 第4楽章は、第1楽章で生み出された負の感情の解決の場。第1楽章の崩壊しかけたソナタ形式に対し、第4楽章は比較的明確なソナタ形式に則っているのも印象的。フリューゲル・ホルンとホルンによる威勢の良い開始は、先行楽章の鬱々とした世界を打ち壊すかのように輝きを放つ。短いティンパニ・ソロの後、ホルンによって提示される勢いのあるひとつ目の主題が、全体へと広がってゆく。途中から「絶望の動機」が聴こえてくると、ふたつ目の主題が現れる。ふたつ目の主題は、ナタリーの葬儀でも歌われたプロテスタントの賛美歌《神の子羊》に基づくもの。ひとつ目の主題とふたつ目の主題を基に展開部を形作り、再現部ではふたつ目の主題は金管群が再現し、その上で木管楽器群はひとつ目の主題を奏する。この動機の結合の中で奏される「絶望の動機」は、いまや輝かしい「希望の動機」へと変容している。ひたすらにC-Durの主和音を目指し、c-Mollで開始した交響曲全体、そしてまた、ナタリーへのレクイエムを完成させる。
 一般にレクイエムは「鎮魂歌」、すなわち「死者への音楽」と理解されている。しかし、レクイエムは死者への音楽ではなく、間違いなく残された者たちへの音楽である。そういう意味においても、本作《交響曲第3番》は交響曲という様式の中で作り上げられるレクイエムなのである。
 本作の作曲を終えた数日後、バーンズの下に新たな命がもたらされた。バーンズはこうも語っている「もし第3楽章がナタリーのための曲であるならば、第4楽章はまさにビリーのための曲です」。こうして本作は「絶望から希望へ」という18世紀以来の交響曲創作の伝統と共に、「亡き娘のレクイエム」、「新たな命への讃歌」をも意味することになったのである。


【期間限定】大江戸SWO第7回定期演奏会第2部 A.リード&J.バーンズステージ